所在地:熊本県葦北郡芦北町
登城日:2025年4月
境目の城として戦場となり、何度かの破城を経て今に伝わるお城。しかし、残った石垣や曲輪の配置は素晴らしく、風情があります。
魅力度ポイント


曲輪の配置は面白いし、石垣や虎口は一見の価値ありです。
点数はあくまでも個人的な見解です。魅力度ポイントの詳細については以下ご参照ください。
概略
佐敷城は文献が残っていないため、築城年代や築城者等は正確には分かっていない。今の熊本が加藤清正の領地となった1588〜92年(天正16〜20年)にかけて、薩摩との国境を守る城「境目の城」として築城されたと考えられます。
佐敷城で有名な事件として「梅北の乱」と呼ばれるものがあります。1592年(天正20年)、朝鮮出兵で佐敷城代加藤重次が朝鮮半島に渡っている間に、島津家臣の梅北国兼が佐敷城を乗っ取った事件です。事件は偽って投降した加藤家留守居の家臣によって梅北が打ち取られ、3日間ほどで終結しました。(2週間以上占拠されたという説もある。)
関ヶ原の戦いでは、島津軍の攻撃を受けて城は包囲される。城代加藤重次は、関ヶ原で西軍敗北が伝わり島津軍が兵を引くまで約1ヶ月間、城を守り通しました。
1615年(元和元年)、一国一城令にて佐敷城は廃城となる。さらに、天草・島原の乱後に、加藤家による破城(城を壊すこと)が不十分として、再度破却される。
1979年、城山公園整備に伴い発掘調査が行われ、石垣が出土しています。さらに、1993年から2002年まで発掘調査が行われています。1998年、熊本県指定の史跡に、2008年には国指定の史跡になっています。
別名 | 佐敷花岡城 |
城地種類 | 山城 |
築城年代 | 1588年(天正16年) |
築城主 | 加藤清正 |
主な城主 | 加藤重次 |
文化財史跡区分 | 国指定史跡 |
見どころ
縄張

佐敷城は、城下を薩摩街道と人吉街道が通っている交通の要衝に築かれています。花岡山の山上に総石垣の本丸、二の丸、三の丸が階段状に配置されています。
登城口

駐車場の入り口付近に佐敷城の看板と石碑があります。その左横に城まで続いている道があります。城に行く道はこれだけだと思われます。

駐車場にはトイレがあります。トイレの前にあった説明版です。けっこうワイドな作りです。佐敷城のパンフレットも右側に掛かっています。「ご自由にお取り下さい」となってますので、1部いただきます。

登城口(勝手に登城口と呼んでいますが)に入ってすぐの所に堀切があります。佐敷城の看板のすぐ裏側です。パンフレットに堀切と書いてありましたので、ここがそうだと思いますが、一見すると堀切とはわからない感じです。

登城口から城に続く道を登っていくとこんな感じです。右側を見上げた先に城があります。感覚的には3〜5分くらいで城の搦手門のあたりに辿り着きます。
搦手門

登城口から登っていくと城の北西隅のあたりに着きます。道中、右側を見ると写真のような城の西側の石垣を見ることができます。

登り切ると北西隅の石垣の付近に着きます。

北西隅の石垣の角を右に曲がるとそこに搦手門跡があります。

石垣に挟まれた割と狭い階段になっています。

この階段を登っていくと本丸西門を経て本丸まで行くことができます。

石垣の上部がなくなっています。二度にわたる破城の跡が見てとれます。

このあたりから見ても景色は良いです。あいにくの天気でしたが、佐敷川とその河口、その先の海が見えます。天気がいいと天草諸島まで見渡せるそうです。
追手門

城の東側に追手門跡があります。東側に城下町があり、薩摩街道が通っているため、城の正面(大手)は東側になると考えられています。

佐敷城の中で最も大きいと思われる出入口です。見上げるとなかなか迫力あります。奥に見えるのが二の丸の石垣です。

追手門正面左側の石垣です。

追手門正面右側の石垣です。このあたりは城の正面の防備ということもあってか、石垣上部はかなり壊されている感じを受けます。

追手門は虎口になっていて、左に曲がって城内に入れるようになっています。追手門の階段を登った先は二の丸の東門になっています。出張っている石垣は二の丸東門の石垣です。

追手門内部には追手門跡を示す木の柱がありました。

発掘調査で、追手門跡から写真のような「天下泰平国土安穏」と彫られた瓦が出土したそうです。熊本県重要文化財に指定されています。

追手門を登ってすぐの所に二の丸東門があるので、虎口が連続している感じです。正面入口だけあって厳重な防御が施されていたと想像されます。
本丸西門

搦手門の階段を登ってすぐの所が本丸西門跡です。小ぶりな虎口になっています。搦手門とあまりに近い場所にあるので、本丸西門と搦手門は呼び方の違いで実際は同じものなのかな?と思いましたが、判然としませんでした。いずれにしても連続した階段と虎口で構成されている通路で迷路のような雰囲気があります。

このあたりから「桐紋入鬼瓦」が出土しているようです。佐敷城でも最大級の出土遺物のようで、豊臣家の家紋をデザインしており、豊臣家の権力を誇示する役割があったと考えられています。熊本県重要文化財に指定されています。

本丸西門の階段を登り切るとちょっとした帯曲輪のような場所に出ます。左側を見ると、本丸の最頂部へ続く階段があります。やっぱり搦手門側は迷路のようです。

南側を見ると左側が本丸で、まっすぐ南に行くと二の丸に出ます。二の丸と同じ高さの場所になっています。
本丸東門

右側の奥が本丸東門跡です。かなり幅広い通路の先にあります。左側の石垣は本丸の石垣です。

虎口になっています。本丸西門に比べてかなり広いので、こちらが本丸の正面入口であったと想像します。

左に曲がって階段を登っていくと本丸の内部へと続いています。

本丸に登って、上から見た本丸東門です。右の通路が二の丸に出る道で、左の階段が本丸につながっています。

東側を見ると眼下にはおそらく城下町があったであろう城山の麓や佐敷川、その先の山並みが見渡せます。本丸の一段下に見えている階段がある場所が追手門跡です。
本丸

二ノ丸の北側に本丸があります。2段になっています。かなり破壊されているようで、天守があったとも言われていますが、詳細は不明なようです。

この本丸の最頂部には、本丸西門か本丸東門を通って行くことができます。こちらは本丸西門から登って行って撮った写真です。この通路が西門側と東門側を繋ぐ感じで1本通っています。

本丸に登って上から見た通路です。左の階段が本丸西門側の階段です。

本丸東門側はこんな感じです。

この本丸の通路の真ん中あたりに階段があり、最頂部へ登ることができます。

左に見えている平地が本丸の最頂部です。その先の2段下に見えている曲輪が二の丸です。

説明板があり、本丸の石垣は鏡積みで積まれているそうです。

これがその鏡積みで積まれた石垣です。佐敷城で最も高い所にあります。
二の丸

本丸から見た二の丸です。佐敷城の中で最も広い空間であるようです。雑草などが刈られていてとても見やすいです。

三の丸から(南側から)見ると、けっこう高い段差があることがわかります。石垣がかなり壊されていることがわかります。おそらく土の高さまで石垣あったものと思われます。

二の丸の石垣は、かなり徹底的に壊されたようですね。3段くらいしか残っていません。

二の丸の西側には小さい出入口(虎口)があります。名称が付いているのかわかりませんが、付けるとしたら本丸の付け方に倣って「二の丸西門」でしょうか。

本丸もそうですが、東側の門に比べて小ぶりな感じです。やはり東側が大手だからでしょうか。
二の丸東門

二の丸の東側には東門跡があります。こちらは木の柱があり、「二の丸東門」と記されています。

上から見ると幅広く堂々とした虎口になっていることがわかります。

礎石もあるので、立派な門も建っていたのだろうと想像します。やはり東側の出入口の方が大きくて見栄えよく作られているような気がします。
三の丸

写真の左半分の平地が二の丸と三の丸の間の曲輪です。二の丸の一部なのかどうか、名称があるかもわかりませんでした。その右側に一段下がった位置にあるのが三の丸です。

写真の上半分の一段下がった所が三の丸です。二の丸に比べるとかなり狭い空間になっています。

三の丸の東の端には、石垣の跡?なのか石積みがありました。
城の東側の石垣

北側から見ています。石垣の上は本丸と二の丸です。左の茂みの中に少し写っている階段は追手門跡です。

東側の石垣は上半分くらいが保存整備事業による復元だということです。

下から4〜5段が発掘で見つかった石垣で、それより上は復元されたものだと思われます。言われてみると石垣の色が違っています。よくこれほど見事に復元できたものです、すごいですね。
城の北側の石垣

北西隅のあたりから見ています。上部が壊されているので定かではありませんが、かなり高い石垣が積まれていたと想像します。

逆側の北東隅あたりから見ています。階段状になっているのがわかります。石垣の上は本丸です。

下段には説明板があり、この斜面の石垣が佐敷城で最も古い石垣だということです。

最も古い石垣は、下段のこのあたりの石垣を指していると思われます。
アクセス
最寄駅は、肥薩おれんじ鉄道「佐敷」駅ですが、かなり歩く(おそらく30分以上)と思われます。車で行くのがおすすめです。
細い道を登っていく感じですが、きちんとした無料駐車場があります。5〜6台は停められそうな感じでした。トイレもあります。駐車場のすぐ横が登城口になっていて、城の中心部まで歩いてほんの数分です。