佐倉城

登城記

日本100名城

登城日:2016年5月

 天然の地形を上手く利用し、土塁、空堀、水堀で守られた土造りの城郭です。江戸の東を守る要として、有力譜代大名が城主となり、歴代城主の多くが老中など幕府の要職に就きました。

概略

 佐倉城は、戦国時代中頃の天文年間(1532年から1552年)に、千葉氏の一族である鹿島幹胤(かしまもとたね)が鹿島台に築いたといわれる中世城郭が原型です。鹿島幹胤は築城途中で死去し、城は完成には至りませんでしたが、江戸時代初期の1610年(慶長15年)、佐倉に封ぜられた土井利勝によって築城は再開され、翌1611年(慶長16年)から1616年(元和2年)までの間に築城されました。

 北に印旛沼、西と南に鹿島川・高崎川が流れる低地に西向きに突き出した、標高30メートル前後の台地先端に位置する平山城です。地形を巧みに利用して築城されており、水堀空堀土塁を築いて守りを固め、東につながる台地上に武家屋敷と町屋を配し、城下町としました。本丸、二の丸、三の丸などの曲輪から構成されており、本丸と二の丸には屋形があり、佐倉藩の政治の中心的な機能を果たしていました。本丸にはそのほかの建造物として天守、銅櫓、角櫓などがありましたが、明治になると廃城令などにより建物はほとんど撤去されます。その後、帝国陸軍の駐屯地などを経て、1962年(昭和37年)に市の史跡に指定され、現在は佐倉城址公園として整備されています。

 遺構としては、土塁、空堀、水堀や出丸跡、唯一の現存建物である薬医門が残っている。国立歴史民俗博物館建設に伴う整備作業として椎木門(しいのきもん)跡前面の巨大な馬出し空堀が復元される。

 尚、歴代城主のうち9人が老中となっており、その数は全国の藩で最多です。堀田家が歴代城主のうち半分以上の期間を占めました。有名な人物としては、幕末期に活躍した老中・堀田正睦(ほったまさよし)がいます。

別名鹿島城
城地種類平山城
築城年代天文年間(1532〜1555年?)、1611年(慶長16年)   
築城主千葉氏、土井利勝
主な城主土井氏、堀田氏、など
文化財史跡区分 市指定史跡

見どころ

縄張

佐倉城址公園の案内板

 土造りの近世城郭で、明治には陸軍の軍隊が置かれたことでもわかるように、かなり広大な城郭です。所々にある案内図を見ながら巡るのがいいと思います。お勧めルートは、やはり城の大手からということで、自由広場の佐倉城址公園センターに寄ってから、三の丸→二の丸→本丸→南出丸→西出丸→馬出し空堀のルートがいいと思います。

大手門跡

 佐倉城址公園センターの前の道を東に行くと大手門跡がありました。石碑だけで遺構は特にないようです。

三の丸

大正時代に書かれた城の縄張図

 佐倉城址公園センターの前の道を西に進むと三の丸跡です。説明板がありました。大正6年に発行された城の絵地図のようです。現在は自由広場駐車場となっている所に三の丸御殿(松山御殿)があったようです。ここで、幕末の老中であり佐倉藩主であった堀田正睦公が1864年(元治元年)に亡くなったということです。

三の門跡の北側の空堀

 自由広場から進んでいくと右側に空堀があります。三の門跡の北側にある空堀です。

空堀の説明板

 その空堀の説明板です。佐倉城は、遺構内容とその位置の説明が整備されているので見学しやすいです。

三の門跡の東側の空堀

 こちらは三の門跡の東側にある空堀です。自由広場から進んでいくと左側にあります。かなり幅の広い空堀です。往時はもっと深かったと想像します。おそらく、さっきの空堀と合わせて三の丸の出入口の虎口を形成しているように思えます。

佐倉城址公園の看板

 三の丸の方へ進んでいくと佐倉城址公園の看板がありました。城址公園としても本格的にこの辺りからが公園の領域になってきていると思われます。

三の門跡の説明板

 道なりに進むと三の門跡があります。説明板にあるように、往時は本瓦葺で二階建ての門があったようで、門内を三の丸といい、家老屋敷が置かれていたそうです。

三の丸跡

 三の丸には建物は残っていないようですが、かなり広い領域です。

三逕亭

 二の丸方面へ進んでいくと三逕亭(さんけいてい)が見えてきます。昭和57年に東京の乃木神社から譲り受け、その年に解体・移築復元されたようです。お茶室としてお茶席が設けられていたり、貸席もあるようです。

タウンゼント・ハリス像

 三逕亭の前、ニの門跡の近くにタウンゼント・ハリスの銅像があります。佐倉ライオンズクラブが日米修好通商条約締結150周年を記念して建立、佐倉市に寄贈されたものです。

堀田正睦公像

 タウンゼント・ハリスの銅像と向かい合うように堀田正睦の銅像があります。佐倉ライオンズクラブが創立40周年記念事業として堀田正睦公の銅像を制作し、平成18年10月21日に佐倉市に寄贈されました。
 日本とアメリカの通商条約の外交交渉の中心人物だった2人の銅像が並び立っているのは、幕末の開国の歴史を思い起こさせます。

二の丸

二の門跡の説明板

 タウンゼント・ハリスと堀田正睦の銅像の間の道を進んでいくと二の門跡に辿り着きます。説明板にあるように、往時は本瓦葺で二階建ての門があったようで、門内を二の丸といい、藩政を執る役所が置かれていたそうです。二の門跡から本丸に向かって右側(本丸の北東)が二の丸です。

佐倉陸軍病院跡の説明板

 二の丸には陸軍の病院があったようです。

本丸

一の門跡の説明板

 二の門跡から真っ直ぐに進んでいくと一の門跡に辿り着きます。説明板にあるように、往時は本瓦葺で二階建ての門があったようで、門内を本丸といい、天守銅櫓角櫓御殿が置かれていたそうです。現在は建物は残されておりませんが、説明板にある明治に撮影された写真を見ると立派な門だったことがわかります。

本丸の土塁

 一の門を通ってすぐ右側にある本丸北東側の土塁です。往時は、土塁の上に土塀が存在していたようです。

土塁の上から見る一の門跡

 土塁には登れるようになっており、一の門跡も横から見下ろすことができます。

本丸と二の丸の間の空堀

 土塁の上から本丸北東側(本丸と二の丸の間)の空堀を見ることができます。木や植物が繁茂していて写真ではわかりにくいですが、結構深さがある大きな堀です。

本丸跡

 本丸はかなり広いです。広さに驚きます。

銅櫓跡

 本丸の北端には銅櫓跡があります。銅瓦葺、二階造りの銅櫓で、土井利勝が将軍から拝領し、江戸城吹上庭内より移築したもので、元は三層で、太田道灌が作ったものと言われているそうです。

天守跡

 本丸の西端には天守跡があります。三重四階建てだったそうで、火事でなくなってから再建されることはありませんでした。

角櫓跡

 本丸の東側には角櫓跡(三階櫓)があります。

台所門跡

 本丸の南側には台所門跡(不明門)があります。

南出丸(清水出丸)

二の門跡近辺の南出丸へ続く道(階段)

 タウンゼント・ハリス像の後ろにある階段です。南出丸に行くには、ここを降りてもいいですし、二の門跡から一の門跡へ向かう途中の道を左に曲がってもいいです。どちらにしてもけっこう降りますが、南出丸に通じています。

東側から南出丸に入る所

 降りていくと南出丸が見えてきます。

南出丸(清水出丸)

 南出丸(清水出丸)は本丸の南側にあり、清水御門の隣にあったことから「清水出丸」とも呼ばれています。

南出丸(清水出丸)

 かなり広いです。南出丸の中央付近にはベンチがありました。

南出丸の土塁

 南出丸は土塁で囲まれていることがわかります。

南出丸外側の水堀

 南出丸の外側は水堀で囲まれています。

西出丸

西出丸

 西出丸は本丸の北側に突出しています。南出丸から水堀沿いを行くか、椎木門跡と馬出し空堀の間の道を行くと西出丸に辿り着きます。

西出丸

 南出丸も結構広く、やはり土塁に囲まれています。

西出丸外側の水堀

 南出丸も外側は水堀に囲まれています。

薬医門

薬医門(城外から見る)

 薬医門は西出丸と城外を繋ぐ道沿いに建てられている門です。佐倉城内にあった門だと伝えられており、佐倉城の遺構で唯一の現存建物です。ただ、城内のどこの門であったかは不明のようです。

薬医門(城内から見る)

 廃城後、市内の酒造家土井家に移築され、昭和37年、旧佐倉藩主堀田家の菩提寺である甚大寺に移築されました。その後、昭和58年、佐倉市に寄付され、佐倉城内のこの地に移築されました。

西出丸と薬医門

 西出丸内から西側を見た写真です。木に隠れて見えにくいですが、西出丸の西端に薬医門があることがわかります。

馬出し空堀

馬出し空堀(北側から見る)

 馬出し空堀は二の丸の北東側、国立民族歴史博物館のすぐ南側にある防御遺構です。1983年(昭和58年)、国立歴史民俗博物館開館に合わせて復元されました。かなり巨大です!一見の価値ありです。
 発掘調査によって、長辺約121m、短辺約40mあるコの字型で、深さは約5.6mの規模だと確認されましたが、復元にあたっては長辺・短辺は当時のままとし、深さだけ約3mとされたようです。本来は今見えているよりも倍くらい深いということです、凄いですね。

馬出し空堀(南東側から見る)

 空堀の向こうに見えるのが国立民族歴史博物館です。

姥ヶ池

姥ヶ池

 姥ヶ池は三の丸の北側にあります。勝手な推測ですが、天然の水堀として活用していたような感があります。姥ヶ池には悲しい伝説があります。江戸時代(天保年間)この池の周りで家老の娘をおもりしていた姥が誤って娘を池に落としてしまい娘はそのまま沈んでしまいました。姥は困り果て身を投げたと伝えられ、以来、「姥ヶ池」と呼ばれるようになったということです。

城遺構以外(菖蒲園/陸軍遺構)

菖蒲園

 城の遺構ではないですが、姥ヶ池をすこし東に行くと菖蒲園があり、ちょうどハナショウブの咲き始め?のような感じでした。

訓練用の12階段

 こちらも城の遺構ではないですが、佐倉城が明治時代は陸軍の駐屯地となっていた経緯もあり、他の城ではあまり見られない珍しいものがあります。これは「訓練用の12階段」です。高所からの飛び下り訓練に使用したコンクリート製の階段です。壊すのが大変だったため残ったと考えられています。

兵営の便所跡

 こちらは「兵営の便所跡」です。土台だけ残っています。

アクセス

・京成佐倉駅より徒歩約20分
・JR佐倉駅より徒歩約25分
・上記両駅からバスで「国立博物館入口」または「国立歴史民俗博物館前」下車、徒歩約5分

無料駐車場は佐倉城址公園で3箇所あるようですが、「自由広場駐車場」がお勧めです。城の大手口にあたるので見学しやすい(好みですが…)、また、佐倉城址公園管理センターに一番近いので、スタンプ押す場合には便利です。

自由広場駐車場の入り口

スタンプ設置場所

佐倉城址公園管理センター

 佐倉城址公園管理センター建物内と建物扉前スタンプ台にあります。管理センターが閉まっている場合には建物前のスタンプ台で押せますので、24時間365日押すことが可能です。

管理センターは開館時間と休館日があります。

周辺スポット

武家屋敷跡

 佐倉城跡から南東へ徒歩約15分くらいの距離です。江戸の雰囲気を味わうことのできる武家屋敷が現存しています。土塁と生垣の通りに面して、旧河原家住宅(千葉県指定文化財)、旧但馬家住宅(佐倉市指定文化財)、旧武居家住宅の3棟が公開されています。当時の武士の生活を偲ぶことができます。

ひよどり坂

 佐倉城跡から南東へ徒歩約12分くらいの距離です。武家屋敷通りに隣接した古径(こみち)で、武家屋敷から佐倉城の南へ抜ける道です。ひよどり坂は、美しい竹林に囲まれ、周辺の景色が江戸時代からほとんど変わっていないと言われ、「サムライの古径」(さむらいのこみち)とも呼ばれ、佐倉藩士達が佐倉城へ行くときに通っていた道であったことが坂名の由来です。

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