川越城

登城記

日本100名城

登城日:2016年4月

 室町〜戦国〜江戸時代にかけて、関東の軍事・政治の重要な要所であったお城。日本で4つしか残っていない貴重な城郭御殿の1つである本丸御殿が現存しています。

概略

 川越城(中世では「河越城」、江戸期以降は「川越城」と表記されることが多い。本稿は「川越城」で統一する)は、扇谷(おうぎがやつ)上杉持朝の命を受け家臣太田道真・道灌父子らが1457年(長禄元年)に築城したことに始まる。以後約80年間扇谷上杉氏6代の居城となったが、1537年(天文6年)に上杉朝興が死んで上杉朝定が若くして家督を継ぐと、若年の朝定が家督相続したのを好機と見た北条氏綱はそれに乗じて一気に攻勢をかけ、川越城を奪取。武蔵国支配の拠点とした。1546年(天文15年)4月には、俗に言う「河越夜戦」で北条氏康は、扇谷上杉氏、山内上杉氏と古河公方勢の連合軍を撃退し、以後約50年間、川越城は北条氏の武蔵国支配の一翼として小田原城の支城となった。1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻め後、徳川家康が江戸に入府すると、徳川氏譜代の酒井重忠が1万石をもって川越に封ぜられ、川越藩が立藩した。

 江戸時代には川越城を中心に城下町が形成され、小江戸と称された。1639年(寛永16年) 、川越城主となった大河内松平家・松平信綱(知恵伊豆)は、大拡張工事を行い、川越城は倍の規模の近代的城郭になった。縄張り最大時は、約99,000坪、約326,000平方メートルとなる。幕府の大老、老中などの要職を兼ねる親藩・譜代の大名、8家21人が城主を務め幕末・明治維新に至った。

 明治後、堀の埋め立て、建物の取り壊しなどがあり、現在は大部分が市街地になっているが、城跡としては、国内に2例のみ残る本丸御殿があり、他に家老詰所富士見櫓跡中ノ門堀などが現存する。

別名河越城、初雁城、雲隠城
城地種類平城
築城年代長禄元年(1457年)、慶安4年(1651年)
築城主太田道真・道灌、松平信綱
主な城主扇谷上杉氏、北条氏、酒井氏、大河内松平氏、他   
文化財史跡区分 県指定史跡 

見どころ

縄張

本丸御殿にあった縄張図

 本丸御殿の横にあった縄張図です。川越城は武蔵野台地の北東端に位置している城です。これを見ると幾つもの曲輪や堀が複雑に組み合わさった防御力の高そうな城郭だったとわかります。

本丸御殿内にあった縄張図(最初の写真の縄張図とは南北が逆になっています)

 本丸御殿内に現在の地図に川越城郭を当てはめた場合の絵(写真)があります。往時の川越城がいかに広大だったかがよくわかります。また、現在ではそのほとんどが失われて市街地となってしまったこともわかります。

南大手門跡(右下は拡大写真)

 南大手門跡は、往時の遺構は残っていないですが、当時建っていた場所に石碑だけありました。現在の「川越第一小学校」の門の所です。

大手門跡

 大手門跡は、こちらも遺構はありませんが、現在の「川越市役所」の前に石碑が建っております。

太田道灌像

 さらに大手門跡の石碑の後ろには、川越城の築城を手がけた太田道灌の像がありました。

田曲輪門跡

 田曲輪門跡は、こちらも遺構はなさそうですが、富士見櫓跡のすぐそばに石碑だけがありました。富士見櫓の南側にある田曲輪への西側の出入口の門だったと想像します。

本丸御殿

本丸御殿
本丸御殿

 本丸御殿は、1848年(嘉永元年)、結城松平家・松平斉典(なりつね)により本丸御殿の造営が行われる。二の丸にあった御殿が1846年(弘化3年)に焼失したことを機に再建されたもので、これが現存しています。当時の御殿は、現在の8倍の広さである約3,400㎡、建物数も16棟を誇っていましたが、明治時代以降に城の建物が解体される中、本丸御殿も徐々に縮小されました。
 現在は一部のみが残されており、往時の姿を伝えるものは玄関大広間家老詰所のみです。本丸御殿大広間が現存しているのは、日本では川越城と高知城のみであり、非常に貴重な遺構となっています。1967年(昭和42年)、県指定有形文化財に指定されています。

本丸御殿の玄関

 玄関は特に立派です。間口は13間(約23メートル)もあり、大きな唐破風が乗っていて、格式の高さが感じられます。

本丸御殿と石碑

 石碑の後ろに見えている塀は、櫛形塀(くしがたべい)といって、珍しい形の塀らしいです。玄関の左右にあります。

本丸御殿の住居絵図

 本丸御殿の住居絵図が展示されてありました。これを見ると赤枠が現存部分ということですから、現在残っているのはほんの一部分のみで、往時はよほど大きな御殿だったということがわかります。

本丸御殿の廊下

 廊下が部屋の周りを囲むように回っているところが川越城本丸御殿の特徴のようです。

本丸御殿の中庭

 綺麗に整備された趣のある中庭もありました。

家老詰所
本丸御殿から見る家老詰所

 家老詰所は、川越藩に仕えた家老たちの居室として使われた建物で、藩政における重要な役所にあたる。明治初期に解体され福岡村(現在のふじみ野市)の民家に払い下げられていたが、1988年(昭和63年)に、現在の場所に移築復元された。往時は今の場所から約40m西側に独立した建物として存在していたようです。内部は10畳の広間と8畳間2室から構成されています。江戸時代の藩家老たちの詰所が残っている例は全国的に多くないため、非常に貴重な遺構となっています。

家老の藩政の様子を再現

 家老3人による藩政の様子を再現している展示もあります。

家老詰所の縁側
家老詰所の便所

 縁側の先にはトイレもありました。トイレまであるのはなかなか珍しいように思います。なんと2ヶ所あります。

家老詰所から見た本丸御殿

富士見櫓跡

富士見櫓跡

 本丸御殿から南西へ直線で150メートルくらいの場所に富士見櫓があります。この場所は城内で最も高く、二重二階もしくは三重三階と考えられている富士見櫓がありました。名前が示すように富士山の姿も見えていたとされます。

富士見櫓の登城口

 城には天守が設けられなかったため、最も標高の高い富士見櫓を天守の代用としていたそうです。櫓の跡は高台になっていて建物は残されておりませんが、明治時代以降の城の取り壊しを免れた数少ない場所であるとともに、江戸時代の姿を残す貴重な場所です。

浅間神社と御嶽神社

 富士見櫓跡には、現在は浅間神社と御嶽神社が建っております。

中ノ門堀

中ノ門堀

 住宅街の中に中ノ門堀がひっそりと佇んでいます。本丸御殿の北側を東西に走る初雁城通りを西に行ったところにある堀の跡です。往時の川越城の姿を留めている貴重な現存遺構の1つです。整備工事の際、当初の勾配に復元されました。左側が城内ですが、防御しやすいように城側の勾配の方が急なことがわかります。

中ノ門堀の説明板

 西大手門から本丸に向かう途中にあったもので、西から攻め寄せる敵を阻む狙いがありました。ここには名前の由来となった2階建ての櫓門である中ノ門が建てられていました。

アクセス

東武東上線・JR川越線「川越駅」または西武新宿線「本川越駅」から徒歩約30分くらいです。駅からは少し離れていますが、川越駅前の小江戸と呼ばれる街並みなどを散策しながら歩いていくのもおすすめです。

本丸御殿富士見櫓跡中ノ門堀はそれぞれ場所が異なります。歩いていくのに問題ない距離ですが、徒歩での所要時間は下記が目安です。
・本丸御殿 → 富士見櫓跡 : 約3分
・本丸御殿 → 中ノ門跡  : 約5分

車の場合、駐車場はいくつかあるようです。詳しくは川越市の観光用駐車場の案内をご確認ください。(私は市内観光用駐車場に停めて登城見学しました。)

スタンプ設置場所

川越城本丸御殿

 日本100名城スタンプは、本丸御殿の受付の先に設置されています。

開館時間、休館日にご注意ください。入場料が必要です。

タイトルとURLをコピーしました