掛川古城

登城記

登城日:2016年2月

 掛川城の前身となった城。掛川城から北東約500mの丘陵上にあり、本曲輪の土塁や圧巻の大堀切が残っています。

概略

 1474年(文明6年)、駿河守護の今川氏が隣国遠江への侵攻を開始、その一環として今川氏の重臣朝比奈泰煕(やすひろ)により、子角山(ねずみやま)に築かれたのが掛川古城のはじまりと言われています。築城は明応年間はじめ(1492年頃)と考えられます。その後、1513年には龍頭山(りゅうとうざん)(現在の掛川城がある地)に新たに新城が築城されました。新城(掛川城)ができてから、この掛川古城は新城の出城として維持されていたと考えられています。

 1568年、徳川家康による掛川城攻めにおいて、掛川古城は今川方が守っていましたが、徳川方に奪取され、以後、徳川家康は掛川城攻めの本陣として使用したという説があります。その後、徳川氏、豊臣氏、江戸幕府と時代は移っていきますが、しばらく掛川古城に関する記録は見られないそうです。

 1656年(明暦2年)、時の藩主北条氏重により、本曲輪に徳川三代将軍家光の霊牌を祀る龍華院大猷院霊屋(りゅうげいんたいゆういんおたまや)が建立されます。1818年(文化15年)に焼失しますが、1822年(文政5年)、時の藩主太田資始により再建されます。現在の掛川古城一帯は龍華院子角山公園として整備されています。

別名
城地種類平山城?
築城年代1500年頃
築城主朝比奈泰煕、徳川氏
主な城主朝比奈氏
文化財史跡区分県指定有形文化財(龍華院大猷院霊屋)     

見どころ

縄張

 東西に長軸をもつ丘陵上に、本曲輪二の曲輪三の曲輪が直列に配置されています。最高所に本曲輪を置き、大堀切を挟み東に二の曲輪・三の曲輪が配置されています。現在は、本曲輪跡は龍華院、二の曲輪跡・三の曲輪跡は子角山公園となっているようです(もしかすると両方合わせて龍華院子角山公園と呼ぶのかもしれません)。

 現存遺構としては、本曲輪東側の土塁、本曲輪と二の曲輪を分断する大堀切があります。

掛川古城に関する説明板

 掛川古城に関する由来などの説明板が本曲輪跡にありました。

本曲輪

本曲輪跡

 本曲輪は二段から成っていたようです。戦国初期の城にしてはかなり広い感じがします。

本曲輪土塁

本曲輪土塁

 本曲輪の東側に残っている土塁です。なかなか良好に残っているような気がします。現在で幅約10m、高さ約1.5mだそうですが、往時は高さ約2〜3mあったそうです。

龍華院大猷院霊屋

龍華院大猷院霊屋

 本曲輪跡に龍華院大猷院霊屋(りゅうげいんたいゆういんおたまや)が建立されています。1656年(明暦2年)、掛川藩主北条氏重が幕府に願い出て、徳川三代将軍家光(諡号大猷院)の霊牌を祀るために建てた三間四方の方型造りの霊廟です。1818年(文化15年)3月、火災により当時の建物は失われてしまいましたが、1822年(文政5年)には、当時の藩主太田資始(すけもと)により再建されています。現在の屋根は瓦葺ですが、再建時は柿葺(こけらぶき)だったそうです。内部には春日厨子があり、焼失を免れ霊牌が祀られています。1954年(昭和29年)1月30日、春日厨子を含め、静岡県の有形文化財に指定されました。

大堀切

大堀切(南側から見る)
大堀切(堀底から見る)

 本曲輪の東側、本曲輪と二の曲輪の間を分断する大堀切があります。見にいくために南側から近づいていくと、いきなり現れる感じで、高さ、規模の大きさに圧倒されます。とても大きな堀切です。
 現状での規模は長さ65m、幅15m、深さ7mということですが、経年による埋没や崩落があったので、往時はもっと規模が大きく、深さが12m程もあったそうです。

本曲輪から見る大堀切

 写真だと木や竹でわかりにくいですが、本曲輪から大堀切を見下ろしています。上から見てもやはり圧巻の規模だと思います。これほどの規模にしたのは今川氏(朝比奈氏)の時代ではなく、徳川氏の所領になってから改修された可能性が高いと考えられているそうです。

アクセス

JR掛川駅より徒歩約15分

龍華院の西側に数台停められる駐車場があるようです。ですが、登っていく道が細いため、おそらく軽自動車のような車幅が小さい車でないと通れないような感じがします。
掛川城から歩いていくのがおすすめです。

本曲輪へ登城する道
登城する道の途中にあった看板

 この道を通っていくので、普通の車だとなかなか厳しいと思います。掛川城から徒歩10分くらいですので、車は掛川城の駐車場に停めて、歩いて訪れるといいと思います。

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