掛川城

登城記

日本100名城

登城日:2016年2月

 日本初となる木造復元天守現存する二の丸御殿があり、「東海の名城」と謳われたお城です。

概略

 掛川城は戦国大名今川氏の重臣朝比奈氏の居城であった。今川氏が徳川家康、武田信玄によって攻められると今川氏真は掛川城へ逃げ、立てこもりました。徳川家康は掛川城を包囲し、約半年にわたる攻防の末に和睦によって開城させました。掛川城には家康の重臣・石川家成が入城し、武田氏侵攻に対する防衛の拠点となりました。その後、掛川城は武田氏が滅亡しても徳川氏が領有し続けていました。

 1590年(天正18年)、徳川家康が東海から関東に移封されると、掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が約5万石で入城します。山内一豊は大規模な城郭修築を行い、掛川城に初の天守を築き、石垣・瓦葺の建築物など近世城郭としての体裁を整え、また、城下町の整備や大井川の治水などにも尽力しました。関ヶ原の戦いの後、山内一豊は土佐に移転し、その後の江戸時代には掛川城には多くの譜代大名が入っています。幕末の1854年(安政元年)末に、東海地方一帯を大地震が襲い(安政東海地震)、掛川城も天守を含む大半の建物が倒壊した。この際、二の丸御殿は1861年(文久元年)までに再建されたが、天守は再建されることはありませんでした。

 1994年(平成6年)4月、現在の天守が日本初の木造復元天守として再建されています。1995年(平成7年)には、大手門が木造復元される。ただし道路の関係で当時の位置から約50m北に建てられる。現存遺構としては、二の丸御殿太鼓櫓大手門番所がある。

別名雲霧城、松尾城
城地種類平山城
築城年代永正9年(1512年)頃、天正18年(1590年)     
築城主朝比奈氏、山内一豊
主な城主朝比奈氏、山内氏、松平(久松)氏、など
文化財史跡区分   重要文化財1件、市指定文化財1件

見どころ

大手門/大手門番所

大手門は天守閣や二の丸御殿のある場所と少し離れています。ご注意ください。
見学は無料です。

大手門
大手門

 1995年(平成7年)に木造復元されています。ただし道路の関係で当時の位置から約50m北に建てられています。掛川城の城内に入る最初の門であり、最大の門だったようです。かなり立派な門ですね。大きさは間口7間(約12.7メートル)、奥行3間(約5.4メートル)の二階建です。楼門造りの本格的な櫓門は、木造日本瓦葺き入母屋づくりになっています。白壁で板ひさしが配され、棟の上にはシャチ瓦が飾られた勇壮な構えです。

大手門復元の説明板

 大手門の復元に関する説明板(石碑?)もありました。

大手門礎石根固め石の展示

 「礎石根固め石」が大手門内に展示されています。

大手門礎石根固め石の説明板

 「礎石根固め石」とは、大きくて重量のある門を支えるため、直径2m深さ1m50cmくらいの大きな穴に、40cm前後の河原石を円形に4~5段積み重ねたものだということです。その上に門柱の礎石が置かれていたようです。このような展示物は他のお城では見たことありませんね、珍しいと思います。

大手門の場所から掛川城の天守を見る

 大手門から北西方面を見ると天守を望むことができます。小ぶりですが綺麗な天守です。

大手門番所
大手門番所

 大手門のすぐ北には大手門番所があります。城内に出入りする者を監視する役人の詰め所でした。掛川宿と掛川城とを連絡する唯一の番所で、城内に出入りする者は全てここで調べられたようです。現在残されている建物は、1854年(嘉永7年)の大地震で倒壊後、1859年(安政6年)に建てられたものです。番所が現存するのは全国的にも珍しく市の文化財に指定されています。

本丸

縄張
三の丸広場から見た本丸方面

 三の丸広場から本丸方面を見ると天守がよく見えます。目の前に見える門は四足門です。その左に見えるのが太鼓櫓です。四足門の右側には三日月堀があります。

城内にあった掛川城の模型

 城内によくできた模型があります。

掛川城の模型の説明板

 模型は、正保元年(1644年)の城絵図と発掘調査の結果を元に150分の1の縮尺で製作されているようです。削られたり埋められたりして現在見ることのできない曲輪や堀も含めた最盛期の掛川城を再現している模型のようです。

四足門
四足門

 本丸入口のようなかたちで四足門があります。調査では門の跡は見つからなかったそうですが、正保城絵図を元に復元されています。門の内側には入城者を調べる番所があり、本丸に通じる重要な門でした。現在もこの門を通って、本丸、天守に行くことができるので、同じような感覚ですね。

三日月堀
城外から見た三日月堀
城内(本丸側)から見た三日月堀

 四足門の北側に三日月堀があります。三日月の形をしています。深さは8mもあったようです。今見えているよりずっと深いですね。由来はよく分かってはいないようですが、三日月堀といえば武田氏の築城の特徴です。武田流築城技術を用いて徳川氏が構築したもののように思えてならないですね。

十露盤堀
南(四足門)側から見た十露盤堀
北側から見た十露盤堀

 四足門を通ってすぐ右側には十露盤堀(そろばんぼり)があります。本丸を囲む重要な堀です。名称の由来ははっきりしていないそうですが、水がたまった部分がそろばんの箱のように見えることがその由来と考えられてます。

太鼓櫓
本丸から見上げる太鼓櫓
天守入口あたりから見る太鼓櫓

 四足門を通って左側には太鼓櫓(たいこやぐら)があります。城下に時を知らせるための大太鼓を納めてあった建物です。この場所には、もともと荒和布櫓(あらめやぐら)があったようですが、それに代わって、三の丸にあった太鼓櫓が昭和30年(1955年)に移築されています。この太鼓櫓は嘉永7年(1854年)の大地震以後に再建されたものが現存しています。

天守

天守

 1994年(平成6年)4月に、城絵図や古記録を元に日本初の「本格木造天守閣」として復元されたものです。外観三層、内部四階から成ります。天守自体は大きくありませんが、東西に張り出し部を設け、入口に付櫓(つけやぐら)を設置するなど、外観を大きく複雑に見せています。白漆喰塗り籠めの真っ白な外容は綺麗ですね。天守自体の高さはそれほどではありませんが、天守のある位置が高いこともあって、遠くからでも目立ちます。

本丸広場から見上げた天守

 四足門を通った先に本丸広場があります。その右手が登城路になっていて天守まで登っていくことができます。

登城路の説明板

 登城路は折れ曲がっていて敵の侵入に備えて登りにくくなっています。

登城路の途中から見上げた天守

 登城路の途中、大きく曲がっている所から見上げた天守です。右手脇は通路になっていて、二の丸方面へ降りていくことができます。

二の丸方面と繋がっている通路

 その通路です。天守登城路側から見ています。左側が天守になります。まっすぐ行って右側に曲がって降りていくと二の丸の方へ通じています。

 ちなみに、この通路を進んで、曲がった所から振り返って見ると↓のような感じです。

天守登城路と二の丸を繋ぐ通路の途中
天守下門跡

 さあ、登城路を登って天守を目指していくと、天守の入口である天守下門跡(てんしゅしたもんあと)に辿り着きます。天守閣へ入るための二層の櫓門があった所のようです。

間近で見る天守

 天守閣に入ってきました。間近に来ると二重目の復元された「華頭窓」もよく見えます。

霧吹き井戸

 天守閣の南側、天守のすぐ脇には霧吹き井戸と呼ばれている井戸があります。これには伝説があります。徳川家康が掛川城に立てこもった今川氏真を攻めた時、この井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守った、というものらしいです。それ以来、掛川城は「雲霧城」とも呼ばれるようになりました。

天守内部

 天守の中には入ることができます。木造復元の雰囲気あります。

天守最上階からの眺め

 天守最上階からの眺めは素晴らしいです。本丸広場、太鼓櫓、三日月堀、四足門などが一望できます。

二の丸御殿

二の丸御殿

 日本に4つしか残っていない現存している御殿です。安政元年(1854年)の大地震で倒壊したあと、安政2年(1855年)から文久元年(1861年)にかけて再建されたものです。現存する貴重な建築物として、国の重要文化財に指定されています。

西側から見た二の丸御殿

 訪れた日は工事中で全て見学することができませんでした…

二の丸御殿

 御殿は7棟からなる「書院造り」の建物で、それぞれの用途に応じて約20部屋に分かれています。城主の公邸、藩の役所、公式式典の場などとして使用されました。

御殿にある顔出しパネル
御殿から見る天守

アクセス

JR掛川駅より徒歩約7分

駐車場は2箇所あります。どちらも有料です。
天守や二の丸御殿へは「掛川城公園駐車場」の方が近いです。大手門へは「掛川大手門駐車場」の方が近いです。天守と大手門は少し離れていますが、徒歩5分くらいの距離だと思いますので、どちらかに停めて歩くのも良いと思います。

スタンプ設置場所

二の丸御殿

 100名城スタンプは御殿に設置されています。

年中無休のようですが、開館時間にご注意ください。入場料が必要です。

周辺スポット

掛川古城

 周辺スポットというよりも同じお城ですが、あまりにも近いので紹介します。掛川城から徒歩10分くらいですので、掛川城を訪れた際には掛川古城にも是非訪れてみてはいかがでしょうか。掛川古城の大堀切は迫力あります。

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